あなたは隣の家に損害を与えられたとき、裁判所に訴えますか?
おそらく多くの人は「まず話し合いで…」「裁判沙汰にするのはちょっと…」と感じるのではないでしょうか。この感覚、実はかなり特殊なものかもしれません。
一橋大学の法学者・青木人志氏の著書『「大岡裁き」の法意識——西洋法と日本人』(光文社新書)は、その「なんとなく裁判を避けたい」という日本人独特の法感覚を、明治から現代までの法制度史を通じて掘り下げた一冊です。法律の専門書のように見えて、実はとても身近なテーマを扱っています。
「大岡裁き」って、そもそも何だっけ?
大岡忠相(おおおかただすけ)は江戸時代中期、徳川吉宗の享保の改革を支えた江戸の名奉行です。金銭トラブル、相続争い、債務問題——さまざまな紛争を裁いた実在の人物ですが、「大岡裁き」という言葉はむしろ後世の講談や時代劇を通じて形成されたイメージとして広まりました。
その典型が「三方一両損」の逸話です。「双方が少しずつ損をして、みんながなんとなく納得する」という解決。「けんか両成敗」(紛争の双方にともに責任があるとする考え方)も同じ発想です。
本書が指摘するのは、この「丸く収める」感覚が現代の日本人にも深く染みついているという点です。法的な権利・義務を白黒つけるよりも、「お互い様」「もめごとは穏便に」を好む——これが日本的な法意識(人々が法に対してもつ態度・感覚・認識の総体)の核心だというわけです。
隣人訴訟事件が暴いた、日本社会の「空気」
本書で特に印象的なのが、1983年頃に起きた「隣人訴訟」の分析です。
ある夫婦(A夫妻)が、子どもを預かっていた隣人(B夫妻)の不注意でわが子を亡くし、裁判所に訴えました。地裁(第一審の裁判所)はA夫妻の訴えを認める判決を下しました。
ところがその後、A夫妻に対して全国から大量の嫌がらせの電話や手紙が届きはじめたのです。「なぜ隣人を訴えるのか」「そんなことをするのは日本人ではない」という非難の声でした。
社会的なバッシングに耐えられなくなったA夫妻は、最終的に訴訟を取り下げることになります。憲法が保障する「裁判を受ける権利」が、法廷の外の「空気」によって事実上奪われてしまった——この事態はあまりに深刻で、法務省が公式見解を発表するほどでした。
カナダの法学者はこう述べたとされています。「もしこの事件がカナダで起きたとしたら、ニュースの片隅に小さく載るくらいでしょう」と。
明治から続く「外見は西洋、中身は江戸」問題
なぜ日本人はこれほど「法で争うこと」に抵抗を感じるのか。本書はその答えを明治の法制度改革にまで遡って探ります。
明治政府は近代国家の体裁を整えるため、フランス・ドイツ・イギリス・アメリカの法律を次々と「輸入」しました。民法・刑法・商法……制度の枠組みはたしかに西洋から移植されました。
ところが著者が着目するのは、制度は変わったが、人々の法意識は変わらなかったという問題です。
興味深いのが「権利」という訳語の話。ドイツ語の「Recht(レヒト)」やフランス語の「droit(ドロワ)」は、「権利」と同時に「正義」「まっすぐ」という日常的な意味を持ちます。法と正義と権利が一つの言葉に宿っているわけです。
ところが日本語に翻訳する過程で「法」と「権利」が別々の言葉として定着し、「権利を主張すること=正義の実現」という感覚が根付きにくくなってしまった。本書はそう論じています。「権利を主張するのはわがまま」という感覚の遠因が、訳語の選択にまで遡るという指摘は、読んでいてはっとさせられます。
2004年の司法改革は、法意識の改革でもあった
本書が書かれた背景には、2000年代初頭の大規模な司法制度改革があります。その目玉が二つ——法科大学院(ロースクール)の設立と、裁判員制度の導入です。
裁判員制度とは、殺人など重大な刑事事件において、一般市民がくじで選ばれて裁判官とともに有罪・無罪や量刑を決める仕組みです(現在も実施されています)。
著者はこれらの改革を単なる制度改革と見ず、「法文化改革」と位置づけます。つまり「裁判は専門家に任せるもの」「自分には関係ない」という受け身の法意識を変え、市民が法を自分ごととして担う文化を育てようとする試みだというわけです。
「大岡裁き」的な感覚を否定するのではなく、その歴史的な根を理解した上で、現代の法社会とどう向き合うかを問う——これが本書の姿勢です。
まとめ:「法律は難しい」と思っている人にこそ
『「大岡裁き」の法意識』は法律の条文の解説書ではありません。「なぜ日本人は法を使うのが下手なのか」「なぜ権利を主張することに後ろめたさを感じるのか」——そんな日常の疑問を、歴史と比較文化の視点から解きほぐしてくれる本です。
- 裁判員制度の「意味」を知りたい人
- 日本社会の空気感や同調圧力に疑問を感じたことがある人
- 法律や歴史は苦手だけど「日本人とは何か」に興味がある人
そういった方に特におすすめしたい一冊です。読み終えると、日々のニュースで見る「訴訟」や「権利」という言葉の見え方が、少し変わるかもしれません。
書籍情報
- タイトル:『「大岡裁き」の法意識——西洋法と日本人』
- 著者:青木人志
- 出版:光文社新書(No.200)
- ページ数:224ページ