一人のイングランド人が、なぜ異国イタリアで国葬を受けるほどの存在になったのか。
1394年3月20日、フィレンツェの街に鐘が鳴り響いた。全商店が喪のしるしに閉店し、シニョリーア広場には市民が押し寄せた。棺はマダラリスの毛皮と金布で覆われ、騎士・法律家・医師ら共和国の要人たちが棺台を囲む。
葬られたのは、フィレンツェの王でも貴族でもない。イングランドの田舎から来た一人の傭兵隊長──ジョン・ホークウッドだった。
この本はこんな人におすすめ
- 中世ヨーロッパの「戦争ビジネス」の実態を知りたい人
- 『君主論』のマキアヴェッリが批判した傭兵制度の裏側に興味がある人
- ウッチェッロの騎馬像(フィレンツェ大聖堂)を見て「この人物は誰?」と思った人
- 百年戦争後のヨーロッパで「失業した兵士たち」がどう生きたかを知りたい人
- 歴史の中の「成り上がり」物語が好きな人
職人の息子が、イタリア最強の男になるまで
ホークウッドの出自は、はっきりしない。エセックスの小さな村で生まれ、父親は職人ギルドの一員だったともいわれる。貴族ではない。特別な教育を受けたわけでもない。ラテン語すら読めなかった。
しかし、この男には類まれな才能があった。人を束ね、戦場で勝ち、金を稼ぎ、そして生き残る才能だ。
1360年、百年戦争の休戦条約(ブレティニ条約)が締結されると、ヨーロッパ中で大量の「失業兵士」が発生した。彼らは略奪と暴力で生計を立てるしかなかった。ホークウッドもまた、この荒くれ者たちの一人としてアルプスを越え、イタリアに渡る。
ここから、約30年にわたるイタリアでの壮絶なキャリアが始まる。
「戦争」は商売だった──知られざる中世の傭兵ビジネス
本書の最大の読みどころは、中世イタリアの傭兵制度の徹底的なリアリズムにある。
当時のイタリア都市国家は、自前の軍隊をほとんど持っていなかった。戦争は「外注」するものだったのだ。傭兵隊長(コンドッティエーレ)は都市と契約を結び、兵を集め、戦い、報酬を受け取る。まさに戦争の請負業者である。
しかし、その実態は想像以上に複雑だった。
- 傭兵への支払いのために市民に何種類もの税が課された
- 傭兵隊長は雇い主を平気で裏切り、敵陣営に寝返った
- 「空槍」と呼ばれる架空の兵士分の給料を懐に入れる不正が横行した
- 教皇でさえ傭兵の暴力を止められなかった
著者バレストラッチは、こうした戦争経済の仕組みを、フィレンツェの財政記録や契約書、年代記などの一次史料から丹念に解き明かしていく。
チェゼナの虐殺──英雄の影に隠された闇
本書は、ホークウッドを単なる英雄として描かない。
1377年、チェゼナで起きた大虐殺。教皇軍の一員として駐留していた傭兵たちが市民に対して行った残虐行為は、当時のイタリア中に衝撃を与えた。ホークウッドはこの事件に直接関与したのか、それとも回避したのか──史料の読み方によって評価は分かれる。
著者はこの問題を避けることなく、複数の年代記の記述を突き合わせて冷静に分析する。「狡猾な匪賊か、もしくは騎士か」という最終章のタイトルが、まさにこの人物の本質を突いている。
妻への手紙、娘たちの結婚──傭兵隊長の「私生活」
意外に読ませるのが、ホークウッドの家庭生活を描いた章だ。
3度の結婚、娘たちの嫁入り先の選定、嫁資(持参金)の交渉、遺言状の内容──。戦場を駆け回る「最強の傭兵」が、家族のためにどれほど緻密に財産管理をしていたかがわかる。
ラテン語は読めなくても、契約書の数字だけは決して間違えなかった男。その姿は、中世のビジネスマンそのものだ。
ウッチェッロの騎馬像──死後も続く「政治宣伝」
フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に行ったことがある人なら、左側廊にある大きな騎馬像の絵を見たことがあるだろう。パオロ・ウッチェッロが描いたこの記念像は、実はホークウッドその人である。
なぜフィレンツェは、外国人の傭兵隊長をこれほど盛大に記念したのか。そこには都市国家の政治的計算があった。本書はこの「死後の神話化」の過程も詳しく追っている。
翻訳の質が高い
原著はイタリア語で、著者バレストラッチはシエナ大学の中世史教授。学術書でありながら、映画監督エルマンノ・オルミの傑作『ジョヴァンニ』(2001年)にも触れるなど、語り口は柔軟だ。
翻訳者の和栗珠里氏による日本語は、学術的な正確さを保ちながらも非常に読みやすい。固有名詞の表記揺れが起きがちなイタリア中世史の翻訳として、丁寧な仕事がされている。
まとめ:なぜ今、この本を読むべきか
ジョン・ホークウッドの物語は、「何者でもなかった人間が、能力一つで時代の頂点に立つ」という普遍的なテーマを持っている。
同時に、本書は中世イタリアの政治・軍事・経済・社会を、一人の傭兵隊長の生涯を通じてまるごと体験させてくれる。教科書では絶対に味わえない、生きた中世ヨーロッパがここにある。
歴史好きにはもちろん、「組織を率いるとは何か」「異国で成功するとは何か」を考えるビジネスパーソンにも刺さる一冊だ。
書籍情報
- 書名:『フィレンツェの傭兵隊長 ジョン・ホークウッド』
- 著者:ドゥッチョ・バレストラッチ
- 訳者:和栗珠里
- 出版社:白水社
- ISBN:4-560-02620-3